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厄年にいいことあった人がたくさん?知って得する困った年の乗り切り方!

災難が多いという厄年。
その厄年に何でか、いいことあったと主張する人が不思議と多いんです。
貴女の近くにもいらっしゃるんじゃないでしょうか?

でも本当。
なぜかそんな厄年の時に
「たくさんいいことあったんだから!」
などと主張する人は後を絶ちません。
そのくらい多いです。
本当に不思議です。

でも、こんな事実の中にこそ、厄年という困った年の乗り切り方、過ごし方のヒントがあるはずです。
それをしっかり押さえてみましょう。

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なまじ厄年だから幸運がよけいに身にしみる?

中には普通の年よりも厄年をつかまえて、かえっていいことあった、という人もいたりします。

「災難の降りかかるはずの厄年に、いいことあったも無いもんだ」
と、普通なら小馬鹿にされそうかも知れません。

はっきり言って厄年に科学的根拠はありません。
単なる迷信です。
でも、それでも何かイヤなことが起こらないか、と心配してしまうのが人情。

だからそんな年に
「本当にいいことあったよ」
と言われても、なかなか信じられません。

しかしながら、例えば前もって悪いことばかりが続く、と知らされている時に、少しだけでも幸運なことがあった、ラッキーな思いをしたらどうでしょうか?

厄年の最中にかえって「いいことあった」、と主張する方の中にはこういう風にベーシックな部分のところで悪いことばかりを「覚悟」していた人も多いはずです。

事実、そういう幸運を経験したと主張している方たちの体験談には、
「派遣の仕事が見つかった」
「彼氏と出会えた」
「結婚が決まった」
「安産で子供が生まれた」
みたいに、普段のレベルとそれほど変わらない“いいこと”があったと語る人が多いです。

中には
「不吉なことも起こらなかった」
と、普段通りの生活ぶりで、それ自体を幸運だったという方もいるようですね。
幸運
もちろんこれらは普段でもラッキーな部類に入る体験かも知れませんが、だからといって特別に幸運だとも言えるものではありません。

不運がつきまとうと言われている年だからこそ、こういうちょっとした幸せが身にしみる。
目立つ。

それを指して
「かえって幸せずくめだった」
「言われていたほどで悪いこともない、いいことあった年だった」
という心理が働く、とも考えられるのではないでしょうか?

でも、ここにこそ本当に学び取らなくてはならないものがあるようです。

気の持ちようで災難も不幸に見ることができる?

繰り返しますが、厄年は迷信で、科学的根拠はありません。

何しろ神社の神職とかお寺のお坊さんでさえ、信じていないと語る人を私も知っています。
お祓いする役目の人自身がこうなので、私などは
「じゃあ法令か何かで禁止したらどうなのだろうか?」
とも考えてしまいます。

何しろ厄払いと言っても根拠のないものをお祓いし、それで依頼者一人について何千円何万円とお金を取るわけですし。

でもそれはさておき、そもそもそういう習慣的に「良い年」「悪い年」という決まりや迷信に惑わされている私たちの「心」自体が問題のはずなのです。

ですので一つには気の持ちよう。
物事を悪い方に考えすぎないこと。

そして二つ目には、こだわる対象にしっかりした根拠があるかどうか、それを見極めた上で正しく「気にかける」こと。

この二つを胸にたたむべきなのです。

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厄年を通して普段の生活のありがたさを知る

だからそういう迷信、決まり事に振り回されやすいほど、そんな年が巡ってくると落ち込んだりしますが、逆にちょっとでもラッキーなことがあれば余計に
「本当にいいことあった」
「いいことばかり続いた」
となります。

普段だったら何ら変哲ないことが、そういうときにはすごく幸せだったと感じること。
実はこれってすごく貴重な体験ではないでしょうか?

私たちは漫然と普段の生活を営んでいますが、それとなく幸運ばかりを頼んでは、自分の思い通りにならないことがちょっとでもあると悲しくなります。

ところが、そういう不自由な惨めな気持ちのあり方がピークになるのが、一つには厄年という一年でしょう。
しかしながら、それだからこそその一年の間を何の不吉なこともなく過ごせた、普段通りだったと言うこと自体が、実は「いいことあった」と思えることにもなるわけです。

私もそうですが、多分多くの女性は
「出会いもなく、仕事も上手く行かない」
「将来が心配で仕方ない」
とばかり、普段の生活の時から嘆きの連続な方も多いはず。

しかしながらその普段の生活というもの自体に対して、厄年というプリズムを通して見た場合、いろいろとラッキーなことが合わさっているのではないでしょうか?

不平を言えばキリがありませんが、その普段の生活は切り口を変えてみるとそういう見方もできるはず。
そして厄年は、それを気づかせてくれるチャンスの年になっているのではないでしょうか?

自分自身の普段を見つめ直してみること。
あるお坊さんからの知恵ですが、ぜひおすすめしてみたいです。

普通の年も同じくらいに気を配ること

ただ、厄年というのはそういうわけで迷信には違いありませんが、生活のあり方とか健康、人間関係などで「節目」になる時だというのはよく聞きます。
だから、普段よりも注意して過ごすこと、という言い方をする人もいます。

それはそれでしっかり受け止めて損はないと思います。

ですが私などは天邪鬼なので、
「じゃあ、それ以外の年には気を抜いて過ごしてかまわないというのだろうか?」
という疑問も浮かびます。

絶対にそういうことはないはずですし、どんな年だろうと、気を配るべきところには配っておくべきでしょう。

一つの裏付けになると思いますが、厄年の前とか後になって自動車事故に遭ったり、大病したりするという人も多いです。

その理由をごく単純に考えれば、そういう年にさしかかった時にはすごく注意を払って過ごすため、災難にもなかなか遭わないかも知れません。

けれど、それを過ぎてしまうと油断してしまう。
“喉元過ぎれば熱さを忘れる”
みたいな心理が働くのではないでしょうか?

そして結果、普段の年よりも厄年の方がかえって「いいことあった」と懐かしがってしまう(?)のかも知れません。

どの年も平等に注意を怠らないこと。
これはやっぱり大事だと思います。
神社

知らぬが仏の方がよっぽど幸せ?

最後になりますが、そういうわけで、 厄年に限って「いいことあった」という人は、心理的な作用が考えられること。
普通のことを幸運だと思える気持ちになりやすいことが一つあげられます。

また、それを通して私たちがむしろ普段の生活の中にこそ「いいことあった」と思える努力をすべきではないか?
そういう事も言えるでしょう。

でも、そんな年の一番良い乗り切り方は
「厄年なんて知らないで過ごす」
「知らないうちにその一年過ぎてしまった」
と言うもの。
“知らぬが仏”こそ最高ではないでしょうか?

根拠のない迷信に心を砕くよりも、むしろ今ある生活や健康に感謝して毎日を過ごす。
これもあるお坊さんのハナシです。

もちろん、だからといって知ってしまった私たちはどうにもなりません。
それでも気にしすぎたり、悪い方にばかり考えないこと。
これをぜひ押さえて過ごして行かれることを願います。

後藤ゆかり

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