私たちは絶え間なく厳しい現実の社会にさらされて、その結果落ち込む時というのがいくらでもある。自分ではどうにも避けられないことも多い。
そういう時、ちょっとスピリチュアルという視点から自分たちの落ち込む時というのがどんな意味を持つのか、考えてみることをオススメしたい。
なぜなら今、スピリチュアル的な考え方はすごく世の中に受け入れられているし、人間は誰でもそういうスピリチュアルな力の中に必ず置かれているものだからだ。
そして何より、落ち込む時とか悲しいとき、そういう力があることを知っていればどれだけ気持ちの助けになるか、心が楽になるのか、そういうメリットがたくさんある。
すごく役立つと思うので、こうしたポイントについて語ってみたい。
スピリチュアルは自分を見守ってくれる人たちとの対話?落ち込む時というのはそれに気づくきっかけかも
失恋したときとか仕事が失敗したり、または身内に何かがあったんなどで落ち込む時、まずスピリチュアルという考え方をする人は少ないはずだ。
その前に、悲しみようによっては
「私には誰も味方がいない、側にいて慰めてくれたり励ましてくれる人なんかいない!」
みたいに究極的な悲観をする場合があったりするものだ。
でもスピリチュアルな力、考え方というのはこういう落ちこむ時、目の前が真っ暗な場合に一番発揮するのかも知れない。
そこまでではない気持ちがいつも楽しいわけではないし、毎日の生活に追われていつも一喜一憂しなくてはならないはずなのだ。
これで気持ちが疲れてしまったり痛くならない方がかえっておかしい。
そうは思わないだろうか?
もちろんだからと言って、素直に落ち込む時は落ち込むべきだ、などと言うことは言わないけれど、そういう落ち込む時、自分はあくまでも世界に一人ぽつねんと生きている、と言うことをスピリチュアルの世界では真っ向から否定する。
そう言い切って良い。
そもそもこういう世界では、人間にはその背後に霊の存在として、その人を守って導いてくれる人たちが必ず複数いる、と考えている。
それを証明することは非常に難しいけれど、しかしながら今現在、少なくとも誰でも霊の存在というのは大体認めているだろうし、また多くのそういうスピリチュアルの世界に明るい人とか専門家、あるいは権威者によってその存在も主張されている。
人が悲しみに落ち込む時、そういうスピリチュアルな存在である背後にいる人たちは、必ず何かの方法で手をさしのべてサインを送ったり、導いてくれるものだし、時にはそう言う意図を持ってあえて傍観しているとも言われているのだ。
これを考えれば少なくとも私たちこの世に生きている人間というのは、決して誰でも一人ではない。
常に見てくれている人たちがいる。
これがまず、私が第一に伝えたいスピリチュアル的な考え方になる。
なぜ落ち込む時に助けてくれないのか
そういう霊的な力や人たちが、現実に苦しんでいたり悲しんでいる人を支えていながら、その人が落ち込む時にはなぜ直接助けようとしてくれないのか?
いろいろな人が疑問に思うのがこれになると思う。
しかしながら私は思うのだが、そういうスピリチュアル的な存在として私たちの背後にいる人たち、そういう人たちがいると言うこと自体がすでに私たちが支えられて生きている、ということになるのではないだろうか?
そもそもそういう背後の霊とか、亡くなった先祖が私たちを絶えず観察していて、その中で私たちが誤った行動をしたら何らかの警告やサインを送る。
もちろん分かる人には分かるかも知れないが、そういう力を持つ人というのは非常に数が少ないし、中には誤解してしまう人だって多いだろう。
だが落ち込む時というのは、そういうスピリチュアル的な存在で私たちの背後にいる人たちからみれば、
「そのように落ち込むことが必要だからあえて傍観している」
ともとれるようだ。
実際、守護霊と言われる人たちとコンタクトがとれるようなスピリチュアル関係の人に言わせると、そういう霊が守護している人間がなまじ人生の岐路に立つような場面に来たときには、逆にあえて傍観しているようなケースも多いようだ。
その理由は、
“自分自身の人生であるから、自分で決断し解決すべきものはそうさせる”
と言うことになるらしい。
要するに、一足飛びになるけれど自分が落ち込む時には、結局落ち込む原因となるタネを自分で蒔いていたと言うこと。
そして落ち込む時が来たと言うことは、自分で蒔いたタネを刈り取る時がやってきた、ということになる。
全てが自己責任なのだ。
スピリチュアル的な考え方をした上で、私たちが落ち込む時にどうすれば良いのか?
こういう霊的な存在や、それを取り入れた人生や生活、あるいは恋愛といったものの考え方。
それを素直に受け入れられない人も多いかもしれない。
私自身、確かにまだ半信半疑なところもあるけれど、でも決してムダな考え方ではないと信じているので、あえてそのまま受け入れて話をつないでいる。
じゃあそういう場合、人が落ち込む時にスピリチュアル的な存在を考え合わせた上で、どういう手がかりや助けになるというのだろうか?
ここで落ち込む時というのは、人があるマイナスの状態に陥ったり心境になってしまったりしていて、袋小路にさしかかってしまっているような場合と考えて良いと思うけれど、結局のところそういう窮地は自分にとって乗り越えられるものだから、そういうものに直面させられている、と考えていくべきだ。
そしてこれもスピリチュアル的な思考の一つになるけれど、人にとって乗り越えられない困難はない、と言うのがある。
「乗り越える」と言う言葉の意味自体、すごく広くて一言で言ってよいのかは難しいかも知れないけれど、
「乗り越えられる困難だからこそそういう背後の霊とか守護霊というのは傍観しているものだし、当人が乗り越えられないときにはきちんと手をさしのべてくれる」
という考え方もあるようだ。
恋人に振られたとき、または好きだった彼氏に不幸が訪れてしまい、悲しみのどん底になることだってあるかも知れない。
そういうことまでを軽々しく言うのは差し控えるべきだけれど、しかしながら背後にいるそういうスピリチュアル的な存在の人たちは、必ずそうした究極的な場合をも配慮してくれている、と言って良いにちがいない。
大切なのは、そういう落ち込む時を乗り越えることで、自分自身の心、ひいては自分の魂というのがさらに向上し成長していく、それを達成すること。
安易には行かないかも知れないけれど、それがぜひ必要だから、そういう落ち込む時をしっかり受け止めていくことが大切になる。
以上のこと、私自身から出たものではなく、ある知人の知恵によるのだけれど、すごく物事とか日常的な生活の中で応用が利くと思うのだ。
その知人もそれを願っているという。
何かの気づきになると信じているので、ぜひお読みなった方はご参考に願いたい。
ゆうき まな